13>心で信じるだけでなく、心で従順する事が真の信仰である<要約> <ローマ書6:17-18>2023.3.12.<主日>大阪愛する教会、金好日牧師。 私たちが心で信じるだけでなく、心で従順を決心すれば、真の信仰を持つ者なのです。心で信じさえすれば救われるというのは聖書と異なるのです。心で信じるだけでなく、心で従順する事を決心すれば、それが真の信仰であり、神様がそのような人を義とされ救われるのです。 1>救いの条件は悔い改めと信仰なのです。悔い改めとは、罪から立ち返る事であり、信仰とは、イエス様を王<主人>と救い主として受け入れ、イエス様の血潮の功に頼るだけでなく、イエス様に従おうと決断する事なのです。私たちは信仰によって救われるのです。真の信仰は最初から心で信じ、心で従う事を決断し実践するようになるのです。ですから、イエス様を信じると言いながら行いが伴わないのに、私は信じるから救われた、天国へ行けるという考えは間違った事なのです。 2>アブラハムは、創世記12書で最初神様を信じ義とされた後、直ちに実践(じっせん)する信仰だったのです。最初から従う事を決心した信仰だったので故郷(ふるさと)を離(はな)れたのです。ですから、心で従順を決心しなければ福音を信じる事が出来ないのです。福音は従順が求められるからなのです。ヤコブ使徒は、信じると言いながら行いが伴わなければ、自分自身が救われない偽りの信仰であると強調したのです。 イシンチンイとは、信仰によって救われるという意味なのです。人は皆、罪人なので神様が人を救われる時には信仰だけをご覧になり救われるのです。信仰は私たちをイエス様と一つにさせ、私たちの代わりに十字架の上で亡くなられたイエス様の血潮の功で私の罪が赦されるのです。また、私たちに聖霊を受けさせ、罪に打ち勝ち御言葉通りに従わせるのです。使徒パウロが強調した、信仰によって救われるという意味は、信じさえすれば救われるという事ではなく、アブラハムが持っていた信仰が真の信仰なので、そのような信仰を持つ者たちが救われるという意味なのです。 ですから、最初から心で従おうとする信仰もなく、無条件(むじょうけん)に心で信じ告白さえすれば救われると、主張するのは間違った事なのです。私たちは救われ天国へ入らねばならないのです。天国と地獄は存在します。それで、使徒パウロも、信仰の先祖であるアブラハムも天国を目指して生きて行ったのです。ですので、私たちも天国を目指して生きて行かねばなりません。天国を目指して生きて行かないので、悔い改めと祈りをせず罪とも戦わないわけなのです。 てすから、本当に願う所が天国でなければなりません。天国の主人であられる神様の元に近づいて行かねばならないのです。私の関心は何なのか。何のために生きているのか。私の目標は何なのか。ですから、その人の考え方と、行動また祈っているのを見れば、目標が何なのかが分かるのです。天国は罪と戦(たたか)わずに入れない所なのです。 それで、悔い改めと祈りが必要なのです。 祈らなければ罪に打ち勝てないからなのです。それで、私たちの弱さを助けるように聖霊様を遣(つか)わして下さったのです。ですから、聖霊様に頼りながら常に目を覚ましているべきなのです。死んだ後に天国へ入る事よりもっと大事な事はないのです。ですから、救いがどれほど大いなる祝福であるのかを悟らねばならないのです。 大事なのは天国であり、救いであり、永遠(えいえん)の命なのです。それで、イエス様を知っていき、愛し、イエス様の御言葉を守る者になり、イエス様に喜ばれる人にならねばなりません。イエス様に認められる人になるため、努力する事が生(い)き甲斐(がい)のある人生なのです。 |